小出 精 私が木町小(当時、国民学校)の3年生のもうすぐ夏休みという7月9日の夜、ついに仙台もB29の大群に襲われた。北三番丁(現・支倉町)の我が家から家族と共に外に逃げ出したときは、市の中央部は既に空一杯が真っ赤に染まるほど建物の消失がすすんでいた。 必死に逃げた空襲の夜 私達はひたすらまっ暗な市の北西方向へ逃げた。道は逃げる大勢の市民でラッシュ状態だった。夜を徹して歩き10日の夜明け近くにB29の爆音がようやく消え去った頃、やっと一休みした場所は今の北山駅の近くだった。大学病院近くの我が家に向かって引き返して来る途中、木町小の校舎の3分の2余りが焼け落ちて煙の立ちこめる黒い燃えがらと化しているのを見たとき、膝の力ががっくりと抜けるのを感じた。 次々に伝わる悲報 次の日だったかに校庭に召集されたとき、クラスの3分の1以上は被災したらしく、来ておらず、しかも3人の級友が亡くなっていた。その後、日が経つにつれ、父の親友だった人(市の中心街で代々薬局を営んで来た老舗の主人)が直撃弾を受けたらしく遺骸の一片も見つからなかったとか、兄の中学の級友で、燃える自宅をバケツリレーで消そうとしていた人が、兄弟もろとも焼死したなどの悲報を次々に知らされて、事態の深刻さを痛切に感じたのであった。 長い夏休み中に歴史的ニュースが続出 学校は無論授業など不可能で9月初旬までの長い夏休みとなった。その間に起きた広島・長崎の原爆被災、ソ連の参戦、そして終戦などの歴史的事柄を報じる新聞の見出しのあれこれやラジオの音声などを、今もよく想い出せるのは、それらが子供にとってもいかに心に刻みつけられる衝撃的な事柄であったかという証拠だと思う。 混乱と明るさと 以後数年、食料難・学校教育の激変(教科書の中の方々を墨で塗りつぶす作業とか、教室を失った為、方々の住宅に分散して行われた寺子屋そっくりの授業etc)の混乱が続く一方では、世の中には明るさや開放感・希望の雰囲気も漂っていた。 旗行列で祝った新憲法を守ろう そして小学5年のときに新憲法が誕生し、私達児童も大勢の市民と共に、学校から市役所前広場まで旗行列をしてお祝いしたのであった。実に夥しい犠牲の上に生まれた貴い憲法である。これまでに受けたその計り知れない恩恵を忘れるなどは、まさに喉元過ぎて熱さ忘れるの典型であり、改悪するなどはもってのほかと云う以外はないのである。 (みやぎ憲法九条の会呼びかけ人。一人の市民。鶴ヶ谷七丁目在住) |
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